皆川城(栃木市)
皆川城は栃木市の西 県道75号線が葛生に向かう県道126号線が分岐する交差点の北側の城山に築かれた城である。
(城が築かれていたから「城山」か?)城址の南には県道75号と並行して東北自動車道が走っている。
皆川城が築かれている城山は比高100m程度ある双頭の頂上を持つ独立峰であり、頂上から下に5,6段の帯曲輪と2つの大きな竪堀、下部に横堀を巡らす1つの山全体にわたり城郭が築かれている。山城としては極めて大規模である。
城域としては東西400m、南北320m程度でありそれほど広い訳ではない。
形が螺に似ているため「螺貝城」の異名がある。
現在、西半分が公園化され、アスレチック遊具が置かれているため、木が切られ芝生が植えられた状態である。
このため、曲輪の配置、形状がはっきりわかる。螺に例えたことは妥当であり、帯曲輪が幾重にも山を取り巻く形は螺そのものである。
当時の山城は大体、斜面の木は切られた状態であったと言われているが、この城の場合、全山の木を切った場合、メソポタミヤ、マヤ、古代エジプト初期の階段状ピラミッドのような姿となるであろう。
下の鳥瞰図は現地調査の結果をもとに描いてみたものである。
やはり階段状ピラミッドに近い姿である。
城に登るのには皆川公民館となっている館跡に車を置く。 ここは東西250m、南北100m位の平坦な場所であり、かつては皆川中学校の敷地であった。 この場所も南側の水田より3mほど高く、三方に土塁がありその前には水堀があったと言われる。 真中に土塁があり、館を東西に分けている。 平時の城主の居館があった場所である。 その北側に城の本体がある。城のある山に登ろうとするといきなり東の竪堀が現れる。 しかし、杉林に覆われ上部は見えない。 城の東半分は林であり、その中に城址が完存しているが、林のため中の確認がしにくい。 これに対して西半分は公園化のため木を切り、芝生が植えられており、遺構が良く把握できる。 西側の竪堀の周りはアスレチックが置かれているが、これらは帯曲輪の形状を変えない状態で設置されている。 堀を下から見上げると5つ程度の帯曲輪が横にあり、曲輪の一部は竪堀内にせり出している。 堀の両側にも低い土塁があり、堀を深くする工夫がされている。 竪堀の上部先端はちょうど曲輪の斜面にぶつかる構造となっている。 一番下の帯曲輪の外側と山側には土塁が回り、曲輪の下には水堀があった。 |
西側に回ると土塁の間に西虎口が開き、ここを登ると横堀があり、堀底道を通ることになる。
西虎口の正面にも曲輪の斜面が立ちふさがる。
これらの堀と曲輪の技巧的な配置がこの城の最大の見所であり、良く見れるようになっているのは喜ばしい。
5段の帯曲輪を登ると井戸曲輪がある。ここも結構広い。
その上の郭が二郭であり、ここは東西80m南北50m位の平坦な郭である。
ここに篭城用の館と米倉、武器庫があったものと思われる。
その西側が6mほど高くなり、西郭があった。この郭は西方向の物見台であろう。
本郭は二郭の東側にあり、東郭とも呼ばれる。二郭からの比高は15m位である。
斜面の勾配は緩く途中に小さな曲輪が数箇所ある。
頂上の本郭は直径20m程度のやや楕円形をした郭であり、平坦ではあるが周囲に土塁はない。
中世山城の雰囲気を強く感じさせる郭である。
ここからの東の栃木市方面の眺めは抜群であり、ここも物見台として使われていたものと思われる。
この本郭と二郭の取り合わせは笠間城や国安城と良く似ている。
皆川城は山上部の郭がいずれも広く、山上にかなりの兵を置くことが可能であり、篭城時の居住性も優れた城郭である。
北、西、南が山に囲まれ東に開けたこの地には周囲の山に出城が配置され、東には永野川を自然の水堀とした馬蹄形の要塞地帯となっていたという。
南側低地から見た皆川城。 | 館北側の堀。右が城の曲輪。 南側を始め全周にわたり土塁があった。 |
東西の竪堀の間にある曲輪。 | 西の竪堀を下から見上げる。 |
西虎口。土塁間に開いており、堀底に つながる。正面には下から2番目の 帯曲輪が迫る。 |
一番下の帯曲輪の西側。 低地側に土塁がある。 |
途中にある帯曲輪。 幅は5m程度と狭い。 |
二郭南側下の曲輪 |
二郭南の井戸曲輪。かなり広い。 | 二郭内部。平坦で広い。林部が本郭。 | 本郭直下の階段。 | 二郭南下から二郭を見る。 |
西の竪堀を上から見下ろす。 途中に張出しがある。 堀底は横堀につながる。 |
西の竪堀上部から見た曲輪。 | 西の竪堀途中から上部を見る。 | 東の竪堀 |
館跡。西側に土塁がある。 |
皆川城は鎌倉幕府の創設に貢献した小山政光の子、長沼淡路守宗政の子宗員が寛喜年間(1229-31)に築いたものという。
その後、皆川を名乗り6代この地に居住するが、北条高時に滅ぼされ、長沼秀宗が皆川氏を再興した。
以後、皆川氏は周辺の中小大名同様、結城氏、宇都宮氏や佐竹、北条といった巨大大名とある時は見方、ある時は敵として行動した。
天正18年(1590)の小田原の役では、時の城主皆川広照は北条方についたが、いち早く豊臣方に降伏し、改易だけは免れた。
一方、皆川城は上杉景勝の攻撃で落城した。
役後、皆川広照ははやめに降伏したため、再びこの地で3万石を与えられた。
関が原の戦いでは皆川広照は東軍に組みし、大名として存続したが、慶長14年(1609)改易された。
この頃には本拠は平地の栃木城に移され、皆川城は実質的に廃城状態にあったと思われる。
この時、廃城になったものと思われる。しかし、皆川広照は元和9年(1623)常陸国府1万石を与えられ大名として復活した。
現在残る城の遺構は小田原の役の前ころ皆川広照が整備した姿と考えられる。